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マンギラオ
Mangilao
カトリック教会:聖テレシタ教会
フィエスタの時期:9月後半
地区の概要
グアム中央部のマンギラオ地区はバリガダ地区とチャランパゴ地区に挟まれ、デデド地区やジーゴ地区と境界を接しています。地区内はラッテハイツ、ラッテプランテーション、サンライズヴィラ、バンヤンハイツ、そしてパガットの北と南に分かれ、グアム大学とグアム・コミュニティ・カレッジがあることから「教育の首都」と呼ばれています。
歴史
今ではすっかり現代的なマンギラオですが、じつは1,000年以上をさかのぼる古代文化の跡地でもあります。(アンダーセン空軍基地の「裏道」として知られる)15号線にある古代チャモロ人の村パガットは、グアム有数の景勝地。息をのむような断崖から太平洋をのぞみ、ジャングルを抜ける小道は地下水脈の洞窟や古代のラッテストーンにつながっています。
当初、パガットに人が暮らすようになったのは古代後期、またはスペイン統治時代初期(17世紀後半)とされていました。かんたんに近づけない場所にあるため、最初の住民たちはスペイン統治を逃れてきたものと考えられたのです。ところが1980年代に発見された土器はさらに古い時代、おそらく1,000年以上前の集落に特有なものであることが判明しました。
天然の水源がないこともあって、マンギラオに再び人が住むようになったのは1920年代後半、井戸や学校、道が建設されてからのことでした。マンギラオの牧場主たちは昼間ここで働き、夜にはハガニアの自宅へ帰っていきました。1920年代にはヘンリー・B・プライス海軍総督が「〈土に還れ〉運動」を精力的に展開。農業技術と自給率を高めるようチャモロ人に説き、その一環として指定地域に農場を集中させました。
そこで目をつけられたのがマンギラオとバリガダの一帯。選ばれた理由は、傾斜のあるなだらかな地形、そして首都ハガニアに近いことでした。住民が農場・牧場に住みこんで生産を高めるように、プライスは道路を整備し、1926年にはマンギラオ・スクールを建設し、子供をこの学校に通わせるよう命じました。平日はマンギラオで暮らようになり、ハガニアの自宅には週末しか帰れないと見こんでの措置でした。さらに農業局や酪農工場の設立が命じられました。
第二次大戦後も、マンギラオはグアムの大事な農業地帯でした。主な産品はタピオカ、カッサヴァ、トウモロコシ、モンゴ豆、トマト、ピーマン、その他の豆類。住民は建築作業員として新しく移転してきた人たちにこうした野菜を売り、住居費にあてました。戦後の復興ブームには、軍に雇用された数千人の建築作業員がマンギラオに暮らしていました。彼らの生活のためにやがて道路や家が建てられ、大通りに日用品店が立ち並ぶようになったのです。